2010年 07月 06日
武田信玄遠江(遠州)侵攻
信玄侵攻ルート探訪
先週、梅雨の晴れ間(好天)を利用して北遠の信玄ルートを
探訪しながら彼の行動を探って見た。
甲斐(甲府)を出発して京都を目指す「上洛」の旅は各地で
戦いの連続、戦国武将は何故命がけで京を目指したのか?
元亀3年(1572年)
10月3日・・・信玄約3万人の兵を従え甲斐を出発
13日・・・見付(磐田市)家康と「一言坂」の戦い
12月19日・・・二俣城(天竜)落城
22日・・・浜松「三方原合戦」徳川家康の大敗
「青崩峠」を目指して
自宅から国道152号線を北上、信州(長野県)との県境まで
約80Km、更に林道を走り車で自宅を出て約2時間、通行止めに
車を止め古道を歩くこと約20分、目指す峠はあった。
命を繋ぐ「塩の道」
遠州灘で採取した塩はこの峠を越えて信州(塩尻)まで
人馬を使って運んだ歴史の道でもあった。
昔を偲ぶ古道
3万人も兵や馬を引き連れた大軍を通すには街道を整備拡張しながら
進む大変な行軍だったらしい、、、。
北遠「高根城」
南北朝時代(1400年代)この地、北遠(水窪)を治める為に作られた
海抜420mの頂上に築かれた山城、当時は武田の勢力下にあった。
「高根城」からの眺望
信玄は眼下に見える街道を南下して来た。
見付「一言坂」の戦い
信玄は高根城から更に南下、旧天竜市の北で軍を二つに分け
一方は息子「勝頼」に任せ「二俣城」を攻撃、本隊は春野、森を
経由して見付まで南下して来た。
家康は見付に陣を構え「一言坂」(旧国道一号線近く)で迎え撃つ
結果は家康の大敗に終わり浜松に逃げ帰る。
「二俣城」落城
一方「勝頼軍」は天竜「二俣城」を攻撃するも、ここは天竜川と
二俣川を眼下に、その頂上に築かれた難攻不落の山城
信玄本隊は一言坂で家康を追っ払った後、天竜川沿いに北上
勝頼軍と合流して「二俣城」を総攻撃、ついに落城。
復元された「井戸櫓」
山城で困るのは水、二俣城は天竜川から水を汲み上げる{井戸櫓」を
持っていたが、信玄はこの「井戸櫓」を破壊して水を遮断して籠城する
二俣城を陥落したと言われている。
「二俣城」落城後、信玄は天竜川を渡りいよいよ「浜松城」を目指して
天竜川西岸を南下、徳川家康との決戦場「三方原台地」へと軍を進める。
つづく
先週、梅雨の晴れ間(好天)を利用して北遠の信玄ルートを
探訪しながら彼の行動を探って見た。
甲斐(甲府)を出発して京都を目指す「上洛」の旅は各地で
戦いの連続、戦国武将は何故命がけで京を目指したのか?
元亀3年(1572年)
10月3日・・・信玄約3万人の兵を従え甲斐を出発
13日・・・見付(磐田市)家康と「一言坂」の戦い
12月19日・・・二俣城(天竜)落城
22日・・・浜松「三方原合戦」徳川家康の大敗
「青崩峠」を目指して
自宅から国道152号線を北上、信州(長野県)との県境まで
約80Km、更に林道を走り車で自宅を出て約2時間、通行止めに
車を止め古道を歩くこと約20分、目指す峠はあった。
命を繋ぐ「塩の道」
遠州灘で採取した塩はこの峠を越えて信州(塩尻)まで
人馬を使って運んだ歴史の道でもあった。
昔を偲ぶ古道
3万人も兵や馬を引き連れた大軍を通すには街道を整備拡張しながら
進む大変な行軍だったらしい、、、。
北遠「高根城」
南北朝時代(1400年代)この地、北遠(水窪)を治める為に作られた
海抜420mの頂上に築かれた山城、当時は武田の勢力下にあった。
「高根城」からの眺望
信玄は眼下に見える街道を南下して来た。
見付「一言坂」の戦い
信玄は高根城から更に南下、旧天竜市の北で軍を二つに分け
一方は息子「勝頼」に任せ「二俣城」を攻撃、本隊は春野、森を
経由して見付まで南下して来た。
家康は見付に陣を構え「一言坂」(旧国道一号線近く)で迎え撃つ
結果は家康の大敗に終わり浜松に逃げ帰る。
「二俣城」落城
一方「勝頼軍」は天竜「二俣城」を攻撃するも、ここは天竜川と
二俣川を眼下に、その頂上に築かれた難攻不落の山城
信玄本隊は一言坂で家康を追っ払った後、天竜川沿いに北上
勝頼軍と合流して「二俣城」を総攻撃、ついに落城。
復元された「井戸櫓」
山城で困るのは水、二俣城は天竜川から水を汲み上げる{井戸櫓」を
持っていたが、信玄はこの「井戸櫓」を破壊して水を遮断して籠城する
二俣城を陥落したと言われている。
「二俣城」落城後、信玄は天竜川を渡りいよいよ「浜松城」を目指して
天竜川西岸を南下、徳川家康との決戦場「三方原台地」へと軍を進める。
つづく
by mi-grape
| 2010-07-06 11:24
| 遠州の史跡探訪